とあるケアマネジャーのたわごと🌈

これまでの経験を基にした介護に関する様々な情報、日々の業務を通して感じたことが主な内容です。大変な職業でありますが、長く仕事を続けられる参考に活用して頂ければ幸いです。

『死』について考える

おはようございます。今日はいつもより早起きして充実した一日を過ごそうと計画しています。さわやかな朝でございますが、タイトルは少し重いですね。

なぜ、こんな記事を書こうと思ったのか。それは以下のニュースから色々と思うことがあったからです。

 

神戸新聞NEXT|総合|余命短い患者の「看取りの家」 計画に住民反対「死を日常的に見たくない」 神戸

 

施設建設と住民との意見の対立。このような状況を『施設コンフリクト』と呼びます。

conflict:衝突、論争、口論 (weblioより)

最近では保育所の建設を巡って「子どもの声がうるさい」などということによる反対や、以前から多くある例としては、葬儀会社の建設などが分かりやすいのではないかと思います。

今回の反対に関しては『死』というものへの抵抗が強いように考えられますね。

記事の解説で関西学院大人間福祉学部、藤井美和教授病院や施設で亡くなる人が増えたことで、死は見えないもの、怖いものに変わった」(一部抜粋)と仰っていますが、まさにその通りだと思います。

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平成26年版厚生労働白書 ~健康・予防元年~より

グラフは少し前のデータですが、「自宅で最期を迎えたい」という本人の希望に反して、病院で最期を迎える割合が圧倒的に高くなっているのが分かるかと思います。今後は施設での最期を迎える数値が上昇することは考えられますが、住み慣れた自宅での最期を迎えるということは、さらに減少していくのではないでしょうか。

私がこの業界で働き始めた15年ほど前と現在の状況と比較しても、最期を迎える場所に関しては大きく変化していると思います。それは多種多様な住居形態が出現したことに起因します。

数年前までは自宅以外の終の棲家は、主に特別養護老人ホームでしたが、現在ではサービス付き高齢者向け住宅や有料老人ホームなど、多くの住居形態が存在し、最期までそこで過ごすことが可能になりました。

以前は退院後の住居が無く、いつまでも病院で過ごさなければならない社会的入院も多かったのですが、ハード面が充足されたことでそれは解消してきていると思います。

しかし、一方では様々な施設(※有料老人ホーム、サ高住なども含めて『施設』と表現ささせて頂きます)ができたことで、本人にとっては望まぬ入所へ繋がりやすくなったように感じています。「認知症が進行してきて心配」、「転倒したら危ないから」などといった理由で、決して本人が望まない転居、入所へと至ってしまうケースに出会うことが多くなりました。

また、状態が悪くなってくると「入院させた方が良いのでは」と、明らかに治療の施しようがないご高齢の方に対しても、そのような発言を耳にすることもあります。ご家族にとっては安心、そして負担の軽減になるのでしょうが、、、

このように『死』は病院や施設という自宅とは別の場所で起きるものであり、日常からかけ離れたものとなってしまったように思います。

そして、このことは家族形態の変化にも関連します。以下のグラフから分かるように、40年ほど前には65歳以上の者がいる世帯の割合では、三世代家族が最も高かったものが、現在では12%ほどの割合まで減少しています。

つまり、自宅において孫や子ども達が『おじいちゃん』や『おばあちゃん』と接することが無い家族が非常に多いのです。このことも『死』に触れる機会を遠ざけている要因の一つだと思われます。

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平成29年版高齢社会白書

現在、国は『住み慣れた地域で最期まで暮らす』ことを目指し、地域包括ケアシステムの構築を進めております。もちろん、ハード面の整備は大切だと思うのですが、一人一人の『死生観』を醸成する為の教育プログラムといったものも必要なのでは?と、感じております。死というものは、人生の一部であり決して特別なものではないという理解が進まなければいけませんね。特に『孤立死』や『孤独死』といった言葉が世間に知れ渡るようになってから、死を遠ざけようとする強い心理が働くようになった気がします。