とあるケアマネジャーのたわごと🌈

これまでの経験を基にした介護に関する様々な情報、日々の業務を通して感じたことが主な内容です。大変な職業でありますが、長く仕事を続けられる参考に活用して頂ければ幸いです。

『死の壁』を読んで『死』について考える

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養老猛司著 2004.4 『死の壁』 新潮社
花粉が猛威をふるっている。流れ落ちる涙と鼻水をハンカチで拭いながら読んだ本が『死の壁』です。

読んだ理由

高齢者の支援をさせて頂いてると、死というものは切っても切り離すことができない。
これまでの約15年間、100名以上の方の死に関わってきました。当たり前ですが、人が亡くなることは辛くて悲しいこと。しかし、命あるものは必ず死ぬということは、何よりも確信を持って100%の確率で言えることです。これはどんなことより揺るぎない事実であり、頭ではしっかりと理解できていることなのですが、時に受け入れられないこともあります。
『死』とは何か―単純な疑問がこの本を読む背景にありました。

『死』の課題

進歩した医療技術に私たちは時に難題を突きつけられます。それは延命治療というものです。
先述したように、生命は必ずやがて尽きます。それでも80歳の方に対して、延命治療を施すかどうかの選択を迫ることがあります。
決して80歳だったら老い先短いから不要という意味ではありません。ただ、一昔前なら大往生だった年齢に達してまでも、死の選択を求められることに疑問を感じるのです。
生命が尽きそうな直前に限らず、身体機能の低下に対する医療も時に課題として取り上げられます。腎機能が低下すれば、いま何かと話題の透析治療。口から食べることができなくなれば胃ろう。
治療が無かった数十年前ならば、間違いなく死に至る状態も医療によって生命を維持することが可能な現在の医学。
ある意味で生命、死を操作することができてしまうのです。

読んで感じたこと

解剖医である養老孟司先生の様々な視点で捉えた死が興味深かった。文章も分かりやすいです。
特に興味深かったのは第四章の『死体の人称』筆者曰く、死体には三種類あるとのこと。それは「ない死体」「死体でない死体」「死体である死体」です。
何のことだ?と、これだけでは首を傾げてしまいます。

「一人称の死体」=「俺の死体」であり、これが「ない死体」です。つまり、自分自身が死んでしまっているのだから、観察する主体は存在せず、これは無いもの、見えないもの。

「二人称の死体」=「親しい人の死体」です。抽象的な死体ではなく、悲しみなどの感情を伴って見つめる死。つまり、「死体でない死体」です。

「三人称の死体」=「アカの他人の死体」であり、私たちが死体として認識しやすいのです。つまり、感情が伴わない「死体である死体」です。

私は介護の仕事に携わっています。もちろん、利用者さんが亡くなると悲しい感情を感じますが、一方で「今年は何名の方が亡くなった」と数値化して捉えることもあります。冒頭で「100名以上の方」と記していることもそうなのかも知れません。
専門職として「二人称の死」として、感情移入しすぎてもいけないですが、しかし「三人称の死」として距離を置きすぎるのも良くないことです。
この距離感が非常に難しいと感じました。

それ以外にも脳死のこと、なぜ人を殺してはいけないかなどが書かれています。
「なるほどなぁ」と感じることが多々ありました。
介護の仕事に就いているということに関わらず、これからの時代はしっかりと死生観を醸成しておく必要があると思います。
死について考える上で、とても参考になる一冊でした。