とあるケアマネジャーのたわごと🌈

これまでの経験を基にした介護に関する様々な情報、日々の業務を通して感じたことが主な内容です。大変な職業でありますが、長く仕事を続けられる参考に活用して頂ければ幸いです。

雑記〜新しいことへのチャレンジ〜

大人になると子どもの頃より時間の流れが早く感じることってありませんか?多くの方がそう言うのを耳にしますし、私も痛感しております。

その理由の一つに、大人になると新しいことに出会う機会が減るためでは?と私は思います。特に楽しみを感じられるようなもの。

子どもの頃って、常に新鮮で楽しみなイベントがあったように思います。運動会、遠足、発表会、初めてのデート、初めて訪れる場所などなど。いろんなイベントを楽しみにして、その日まで指折り数えながら過ごした記憶が蘇ります。

大人になるとそうゆうことが減ってしまいますよね。大体のことは経験済みで、全く未知なることに出会う機会というのは少ないのではないでしょうか。

最近、自分にとって新たな領域でのチャレンジを始めました。
ライトノベルを書くことです。
そもそもライトノベルというジャンルすら知りませんでしたが、友達から「ライトノベル書いてみたら?」と提案されたことがきっかけです。

ライトノベルは若者を中心に幅広い世代に読まれており、そういった層を意識して書かなければいけないことや、テーマをファンタジーとしているので想像力をフルに発揮しなければいけません。

これが最近の私にとって新鮮で刺激的なイベントとなっています。ここ最近使っていなかった脳の部分を活用しているような感じです。

目標は1週間に3話は更新したいと思っています。

高校生の主人公が喜怒哀楽全ての感情が失われた異世界に行き、封印された感情を復活させるため旅に出るというファンタジーです。

宣伝になってしまいましたが、アウトプットして少しでも多くの方々に読んで頂き、コメントなど頂戴することでさらなる刺激にしたいと考えております!
ぜひぜひよろしくお願い致します。⬇︎

『Lost ☆ Emotions』
https://ncode.syosetu.com/n5304fm/

『おひとりさまの老後』を読んで

 平成から令和へと新たな時代を迎えました。世間は10連休の賑わいを見せておりますが、介護業界では常に介護を必要としている方がいらっしゃる以上、人手が不足する状況でも皆で協力し合って出勤をしている状況であります。

 さて、今回は上野千鶴子さんの『おひとりさまの老後』の感想について、日頃の業務と関連付けて書いてみました。上野さんと言えば、先日の東京大学入学式での祝辞が話題となりましたね。私もHPで全文を拝読しましたが、とても重要な内容だと感じました。

 

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上野千鶴子著 2011.12 『おひとりさまの老後』 文藝春秋

 

この本を読んだ理由

  以前の記事にも書いたように、私がケアマネジャーとして関わっている利用者さんには単身者が非常に多いのです。

tsunagari-26.hatenablog.com

  単身者の方々は世間から非常にネガティブな印象を持たれているように感じています。

「寂しそう」

「何かあった時に大変」などなど。

 しかし、その多くがどれも漠然としたイメージのように思います。では、家族と同居している方は幸せなのでしょうか?一概にそうとも言えないんですよね。それはそれで、色々なストレスを抱えていることもありますし、介護度が高くなり、本人の望まぬ施設入所を家族が決めるといったこともあるのが実際のところ。「介護負担」というやつですね。

 この『おひとりさまの老後』はひとりで老後を過ごすためのノウハウを様々な視点から考察された一冊です。私が読んでみようと思った理由は単純明快。世間に多く出回っている単身高齢者を取り上げた書籍よりも、ひとりで迎える老後を前向きに捉えているような印象を受けたからです。

 

最期について

 この本における「おひとりさま」の対象は女性です。生涯未婚で過ごす方以外でも結局は離婚や死別でおひとりさまになる可能性は非常に高いという内容の一章から始まります。その発想が良いですよね。結局は皆んな一緒なんだから寂しくない!というような感じですかね?

女性は男性より平均寿命が長いことから、これは納得です。この再びやって来た「シングルアゲイン」をどう楽しく過ごすか。その為の住居、交友関係、お金、介護、そして最期に至るまで事例を交えながら記されています。

 その中でも私が最も興味深かったのは「最期」に関すること。ひとりになって皆んなが口を揃えて言う不安は「孤独死」だ。最近では「孤立死」と表現される方が一般的かも知れませんね。

 私はまだ死を意識するには若過ぎるかも知れませんが、それでもどこかで「死んでしまったら何も感じないし、その後のことは知る由もない」と思うところがあります。確かに私の関わる多くの単身高齢者が気にしているのは、誰かに迷惑をかけてしまうのではないかということ。その誰かは親族や近所の人だったり、家主だったり、友人だったり。

 このことに関して上野さんは、たくさんの孤独死の事例経験がある東京都観察医務院の小島原將直さんの以下のアドバイスを参考にしています。

ひとりで死ぬのはぜんぜんオーライ、ただ、あとのひとの始末を考えて早く発見してもらうような手配だけはしておきなさいね

 ひとりで死ぬことは、決して悪いことではないし、そもそもひとり暮らしをしてきた人が最期の瞬間だけ親族に見守られながら息を引き取ることこそ不自然なことかも知れません。

 

まとめ

 私は特に最期をどう迎えるかということに興味を持ちました。それが日頃の支援において大きな課題となることが多い為です。

 私が関わっているひとりで暮らしの高齢者で、圧倒的に多いのは自分の最期について意識していない方々。逆に家族と暮らしている方は「家族に迷惑をかけないように」と、いろいろ考えている傾向が見られるように思います。

 ネガティブなイメージが強いのが現実ですが、ある意味ではおひとりさまの方が気楽で良いような気もします。ただ、その為には準備は必要です。そのヒントがこの『おひとりさまの老後』に詰まっているように思いました。しかし、男性がおひとりさまとなった場合、楽しく過ごしていけるのだろうか……自分自身にその不安を感じております。

 

 

 

 

 

 

成年後見制度とケアマネジャーの業務について

成年後見は親族 最高裁が見解 | 2019/3/19(火) 6:03 - Yahoo!ニュース

先日の新聞記事等に成年後見制度に関することが載っていました。最高裁判所が後見人には「身近な親族を選任することが望ましい」という考え方を示したそうです。
これまでは弁護士など専門職の選任を増やすことで、後見人になった家族の不正などを防ぐ目的でしたが、制度の利用が進まず見直しに着手したそうです。

確かに私が働いている地域でも制度の利用が進んでいないように思います。
私が関わる利用者は身寄りのない単身者が多いです。認知症が進行して判断能力が低下してくると、支援の幅は非常に多岐に渡ります。いや、認知症の進行だけに限らず、もともと生活スキルが欠如している方も同様。

そのような利用者さんの支援においては、転居先を探したり、契約の支援をしたり、時には金銭管理をしたり、、、
時々、思うことがあります。
これってケアマネジャーの業務の範疇なの?と。

じゃあ、後見人の申請をしたら?とな意見があるかも知れませんが、大半の方はそこまで判断能力が低下していない。
そもそも後見人がついたところで、深く生活に関与して支援してくれる訳ではなく、つまり財産管理だけというイメージが強い。

それならば、いっそのことケアマネジャーの業務範囲を拡大して、そこに対する報酬を出せば良いのではないかと、個人的には思うのです。
しかし、そんなことになろうものなら、ただでさえ多忙を極める業務の負担増大となり、至る所から苦情の声があがりますわね、、、誰だって利用者さんのお金の管理なんてしたくない。

う〜ん、悩ましいですね。

『死の壁』を読んで『死』について考える

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養老猛司著 2004.4 『死の壁』 新潮社
花粉が猛威をふるっている。流れ落ちる涙と鼻水をハンカチで拭いながら読んだ本が『死の壁』です。

読んだ理由

高齢者の支援をさせて頂いてると、死というものは切っても切り離すことができない。
これまでの約15年間、100名以上の方の死に関わってきました。当たり前ですが、人が亡くなることは辛くて悲しいこと。しかし、命あるものは必ず死ぬということは、何よりも確信を持って100%の確率で言えることです。これはどんなことより揺るぎない事実であり、頭ではしっかりと理解できていることなのですが、時に受け入れられないこともあります。
『死』とは何か―単純な疑問がこの本を読む背景にありました。

『死』の課題

進歩した医療技術に私たちは時に難題を突きつけられます。それは延命治療というものです。
先述したように、生命は必ずやがて尽きます。それでも80歳の方に対して、延命治療を施すかどうかの選択を迫ることがあります。
決して80歳だったら老い先短いから不要という意味ではありません。ただ、一昔前なら大往生だった年齢に達してまでも、死の選択を求められることに疑問を感じるのです。
生命が尽きそうな直前に限らず、身体機能の低下に対する医療も時に課題として取り上げられます。腎機能が低下すれば、いま何かと話題の透析治療。口から食べることができなくなれば胃ろう。
治療が無かった数十年前ならば、間違いなく死に至る状態も医療によって生命を維持することが可能な現在の医学。
ある意味で生命、死を操作することができてしまうのです。

読んで感じたこと

解剖医である養老孟司先生の様々な視点で捉えた死が興味深かった。文章も分かりやすいです。
特に興味深かったのは第四章の『死体の人称』筆者曰く、死体には三種類あるとのこと。それは「ない死体」「死体でない死体」「死体である死体」です。
何のことだ?と、これだけでは首を傾げてしまいます。

「一人称の死体」=「俺の死体」であり、これが「ない死体」です。つまり、自分自身が死んでしまっているのだから、観察する主体は存在せず、これは無いもの、見えないもの。

「二人称の死体」=「親しい人の死体」です。抽象的な死体ではなく、悲しみなどの感情を伴って見つめる死。つまり、「死体でない死体」です。

「三人称の死体」=「アカの他人の死体」であり、私たちが死体として認識しやすいのです。つまり、感情が伴わない「死体である死体」です。

私は介護の仕事に携わっています。もちろん、利用者さんが亡くなると悲しい感情を感じますが、一方で「今年は何名の方が亡くなった」と数値化して捉えることもあります。冒頭で「100名以上の方」と記していることもそうなのかも知れません。
専門職として「二人称の死」として、感情移入しすぎてもいけないですが、しかし「三人称の死」として距離を置きすぎるのも良くないことです。
この距離感が非常に難しいと感じました。

それ以外にも脳死のこと、なぜ人を殺してはいけないかなどが書かれています。
「なるほどなぁ」と感じることが多々ありました。
介護の仕事に就いているということに関わらず、これからの時代はしっかりと死生観を醸成しておく必要があると思います。
死について考える上で、とても参考になる一冊でした。

医療福祉従事者にお勧めの一冊『小説 朝日茂』を読んだ感想

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右遠俊郎著 1988.12『小説朝日茂』新日本出版社 


こんにちは。

月初めは何かと忙しく、少しの間更新ができませんでした。一日一記事という目標は早くも達成できませんでした。(そもそも、そんなペースでもなかったですが、、、)

さて、ここ最近は通勤時間などを利用し、タイトルにある『小説 朝日茂』を読んでおりました。

朝日茂さんと言えば、重度の結核を患って国立岡山療養所で療養生活を送りながらも、生活保護ひと月600円という生活扶助が、憲法25条に規定する「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という内容に違反していると、厚生大臣を相手に裁判を起こした方です。朝日訴訟と呼ばれるものですね。

朝日訴訟の闘いは、昭和31年に始まりました。つまり、今から63年ほど前のことですが、小説に記されていることは現在の社会福祉にも通ずる内容が多かったように思います。今回は現在社会福祉に関する仕事に携わるひとりとして、感じたことをまとめてみたいと思います。

 

 

自己責任論

生活保護を受給すること、つまり貧困は自己責任であるという考えは、今なお社会に蔓延っているように思えます。以前より生活保護に対する理解が進み、認識は改善してきているとは言え、それは公的な場やメディアでの取り扱いが変わっただけで「ちゃんと働いてこなかったから悪い」といった自己責任を問うような声は日常生活レベルにおいてはよく耳にします。

朝日さんの「一か月に600円の生活費は少なすぎる」という訴えに対して、当時の厚生大臣は「600円でももらえないよりもらえたほうがいいのだから、感謝すべきだ」というようなことを言い放ったそうです。

よく言われる自己責任論や当時の厚生大臣の発言は、その方の背景を見ていません。朝日さんも決して怠惰が原因ではなく、結核という病により病床に伏していたわけです。そして、その背景には幼少期の貧困や家族との別れ、病気の為に志半ばで諦めざるを得なかった夢の存在などといった過去もあるのです。

これは高齢者の介護にも言えること。認知症や寝たきり状態となっても、それぞれの方々に歩んできた人生があり、それを理解すべきだと思います。誰もが幼少期、思春期を過ごし、やがて大人になって夢を追い、時に恋に落ち、成功や失敗、喜びや悲しみを味わった人生を送ってきたはずなのです。

目に見える表面の一部分だけを見て「生活保護だから」「高齢者だから」と、レッテルを貼ることの危険と怖さを感じました。

 

生きる意欲

朝日さんは若い頃から体を動かすことが好きで、じっとしていることが耐えられない方だったそうです。

それは療養所においても同様でした。体調が良くないことを自覚しながらも、療養所の環境改善、自治会の設立や訴訟などに奔走しました。

結核療養の基本は大気、安静、栄養にあるが、朝日さんは活動、つまり生きることに対する積極的意志という目に見えないものを症状の好転に大きく関わると考えたのでした。

これは非常に重要なことだと思います。いくら最新の医療、良いケアを受けたとしても、生きる意欲となり得る目標があり、そこに心が向かうことの大切さを忘れてはいけないと思うのです。先に目標が無いのに、治療やリハビリを頑張る意欲が起きるでしょうか?これは、自分自身の日常に置き換えてみればよく分かると思います。

フルマラソンの大会に出場するという目標があるからこそ、日々のジョギングを継続して頑張れるのです。またある時は、どうしても欲しい物があるからこそ、節約して貯金することができるのです。いずれも目標があるからこそ、日々の意欲に繋がっているのだと思います。

人手不足が課題となっていますが、作業的に目の前のケアだけを行ってしまいがちな現状を改めて見つめ直す必要があるのかも知れません。

 

おわりに

この一冊を読めば、朝日さんの歩んだ人生、そして訴訟に至った経緯、その裁判が「人間裁判」と呼ばれた所以がよく分かると思います。

時は戦前戦後の話ですが、今の時代でも考えさせられることは多くありました。いつの時代も、時に社会は弱者に対して厳しく、延いては現在、福祉関係職種の処遇が良くないことにも繋がっているのではないでしょうか。

私もしっかりと声をあげる勇気を持ちたいと考えさせられる一冊でした。

 

 

 

小説パート3「未来〜みらい〜」

おはようございます。
早速ですが、今回も『ホッピー』をテーマにした短編小説をご紹介させて頂きます。

この作品では、単身高齢者とヘルパーとの関わりを描いています。
世間一般で言われる社会的孤立という状況にある利用者。生活状況は乱れています。それを心配したアパートの管理人が、ヘルパーを依頼しました。
当初はヘルパーに対する拒否が続きますが、少しずつ距離が縮まり、やがて信頼関係が築かれていく様子を描きました。

これからの時代、ますます単身高齢者は増えると予測されます。だからこそ介護職の担う役割は、身体介護や生活支援をするだけではなく、より広い範囲に及ぶと思います。

約10分で読める作品です。宜しければご一読頂きますよう、お願い致します!

https://bookshorts.jp/hoppy_happy_award_20180802m


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綺麗でわかりやすい話し方をする為に

おはようございます!本日は3月3日ひな祭りですね。あいにく、天候は下り坂のようです。

偏見なのか、私が関わる方に多いだけなのか、、、いや、やっぱり結構な割合で多いはず!と思って書きます。
医療福祉業界には、話し方がよろしくない方が多い。話し方の良し悪しなんか特に求められない仕事ならばいざ知らず、対人援助というコミュニケーション能力が求められる仕事にも関わらず多いように思えてしかたありません。
このように偉そうに述べておりますが、それは自分自身も含めてなのですが、、、アナウンサーや司会業をしているような方のレベルまでを求めませんが、綺麗で聞いていて心地良い話し方ができるに越したことはありませんよね。

一言一言をゆっくり、はっきり話すことや適切な敬語を用いることはもちろん大切です。しかし、聞いていて話の流れがスムーズに感じられず、且つ説得力を得られない理由は何だと思いますか?それは「えーと」「あのぉ」などなど、不要な言葉を発してしまうことにあります。

私がこのように感じた理由。それは、自分の話す内容を長時間に渡って、じっくりと何度も繰り返して聞く機会があったからです。
三年ほど前、研究論文を執筆する為にインタビュー調査を行いました。一人に対して約一時間のインタビューを行うのですが、最終的にその内容を文字にする必要があるのです。その作業が『テープ起こし』と言われるもの。
ICレコーダーに録音したインタビューの様子をヘッドフォンで何度も繰り返し聞きながら、文字に起こしていく作業です。聞き取りながらタイプで文字にする作業は、想像以上の労力を必要とします。はっきりと聞き取れない時には何度も戻りながら確認しなければなりません。

日頃、自分が話している声や内容を録音して聞くなどということはありませんでした。ただでさえ「本当に自分の声?」という違和感を覚えながら聞くのですが、客観的に聞いてみると日頃は意識していない話し方の癖に気付かされるのでした。それが前述した「えーと」や「あのぉ」という言葉が会話の始めに登場するということなのですが、それ以外にも以下のようなものがありました。

「若い頃にされていたお仕事とかってお聞きしてもよいですか?」
ちょっとお聞きしてもよろしいでしょうか?」
えっ?それってどういうことですか?」

このような赤字で示した言葉が何度も登場するんですよね。長時間のインタビューをずっと聞いていると非常に耳障りでした。
それからは日頃の会話でも意識して使わないように努めているのですが、気を抜くとまだ使ってしまっています。
どのような場面で使ってしまうかというと、変に気を遣う時や自分の発言に自信が無い時に多いと感じております。しかし、いざ聞き手側になると、例に挙げたような言葉が付くことにより、発言に自信の無さを感じてしまいます。

不要な言葉を使わないようにするには、とにかく使わないように意識をすることが大切だと思います。そして、可能ならば自分の会話を録音して聞いてみること。なかなか恥ずかしい思いをしますが、自分ってこんな話し方しているんだと知ることができますよ!

もし、宜しければ実践してみて下さい!

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